“俗”・設計演習“泰然”

ぎゃー、またミス発見。京都げのむの入稿を6/25日に書き込んだが、その後に膨大な修正を加えて、7/5に再入稿した。しかし、プリントアウトを見返してたら、またミスに気がついた。エンドレスやな。
まあでも、誤字脱字程度はあきらめ。

今号は前号までより見た目にかなり洗練された。おれのノータッチ部分だけどね。デザインが格好いいってだけじゃなくて、内容を伝えるための洗練がずいぶんされたと思う。
ただ、京都げのむ的な“主張する”本になったのかどうかの点では、まだまだ改善の余地ありかなとも思う。これは企画アイディアの貧困さに派生する一連の問題。
特に自分が受け持った記事こそ、それを担うコアな任務を果たすべき位置にいたのだと、全ページを眺めて思った。一号はともかく、二号も三号も、京都に対して新たな視座を提示するんだっていうテーマ設定だった。もちろん、げのむは生まれたばかりで、本作りの過渡期にやらなくちゃいけないことは十分に全うされてるんだけど、おれのページはぺらぺらすぎたー。ただの紙だ。
初入稿のときに忙しかった生活の終わりをちょっぴり寂しく感じ、作業の半端さをちょっぴり悔いたけど、別にこれで終わと決めちゃう必要ないから。まだまだげのむは続くんだから。ポジティブに考えて、後ろめたさなんて感じる必要なし。これを糧とし、明日につなげばそれでよし!
ということで、“俗”・設計演習“泰然”として、京都の設計演習から何が見えるのか、何を期待するのかといった、当初の趣旨に対する結語的な論をちびちび書いて完成させよう。

“俗”・設計演習“泰然” 網膜が剥離しちゃたー
大全と銘打つと、字義どうり広角打法な知識と視点、論述テク等々が備わっていることを想起させちゃいそうなので、大全はやめましょう。泰然とできるかも怪しいですが俗論です。
自分が何となく感じていた建築学生生活観を展開することが、元の「設計演習大全」の出発でした。建築学生の妙な偏り方と世界観の横暴さに対して、やってることのたいそうであることのギャップを暴露し、そんな世界が形成される過程をシニカルに記述する。