無題

ようちえんバスを乗り過ごそうと
泣きわめいて周りの大人を困らせたことを覚えている。
しつこく記憶されているのは、それが邪悪な意図で流した涙だったからだ。
子供のころから私はすでに狡猾だった。
泣けばようちえんは休めると打算の上で泣いていた。

ただ、乗り過ごした次のバスにはオトナシク乗った。
子供のころから私は狡猾になりきれない中途半端な素直さを愛嬌としていた。

私の“後悔”癖はこのときに始まる。
愛嬌とは実はさらなる打算の上であり、
要するに私は狡猾に狡猾を重ねる処世術を心得ていた。
“後悔”は中途半端な素直さが狡猾さに上塗りされるときに生じる感情だったが、
それさえ次の狡猾さへの潤滑油なのかもしれなかった。

だから私は過去を振り返って消去法以外の選択肢を知らない。
人生の岐路はすべて“後悔”されることによって
結果論として肯定され得ない。

私は自分のことを話すのが嫌いだ。
私の過去は“後悔”によって自信が蝕まれているからだ。
競争にたたされればペーパーテストは得意でも、
面接試験は苦手だ。

つい一ヶ月ほど前、自転車で買い物に行く途中、
車と出合い頭に接触した。
幸い私も私の自転車も相手の車もなにひとつ傷つくことはなかった。
驚いた車の運転手は私に駆け寄り、
怪我の有無や救急車の必要性を尋ねたが、
私は「すみません、すみません、」と謝り、
すぐにその場を立ち去った。
車にぶつかる瞬間、すでに前方不注意を“後悔”していた。
私の“後悔”はいよいよ先鋭化しつつある。


そして、
今日の夕暮れ時、自転車で仕事の帰路に着いたときのこと、
路地から猛然と飛び出す自転車と危うく衝突しそうになった。
相手を見上げると、丸々太っためがねの女が憮然とした表情を見せていた。
思わず私は、

「どこ見てはしってんねん!直進優先だろ!でぶっ!」

と大声で怒鳴った。あくまで心の中で。
発声しなかったことを今“後悔”している。っいや、彼女のためにね。

奇しくもヤフーニュースで無灯火事故が流れていた。