だからどうした。

先週末にならまちで開かれた小さなフォーラムに出かけました。
ならまちタイ・チェンマイで活動する民間まちづくり団体の交流イベントです。
経験の交流という言葉が印象的でしたが、文化以上にテクニカルなレベル差に考えるべきことがあるように思いました。
チェンマイは13世紀以来の歴史を誇る古都ですが、現在はタイ第2の都市としての経済発展により急速な変化の波が押し寄せているそうです。チェンマイのまちづくり団体は、フォトショップのCGや模範的風景としてドイツを紹介してくれましたが、どうでもよかったです。
講演者の中に文化庁ホイアンとドンランというヴィエトナムの都市/村の技術協力事業に携わった方がいましたが、その方がまりづくりの秘訣を訊かれて、保存することで得られるもの、つまり、保存の先を目的として共有することを挙げられていました。ありきたりでふううんって感じです。たぶんまちづくりはケースバイケースでなされるもので西洋的な価値感を信仰して一様な目標を設定したりすることにはあまり感心できません。

すこし脱線しますが、都市形成の方角は、保存を訴えることをある程度意識的にやっていくことでようやく統制がとれるものだと思います。保存の意義にプライオリティーをおけるのは多分一般人ではないので、建築を学ぶ人達の倫理は保守的に傾くべきだと思います。様々な異論を了解した上でも、保守的な意見が開発の均衡をとるために確かな役目を果たしていることは明らかで、例えば善悪の議論はあるにせよ、いわゆる歴史都市にある建築のデザインがこれに影響され、それこそデザインへの「ポジティブ」な効用をもたらしていることは重要です。悩ましい都市ほど魅力を放つはずです。
僕が公務員を目指そうとする大儀名文はそこらへんにあるわけですけど、前に公務員職そのものを否定され、それなら一個でも建築を建てられる民間企業のほうがまだましだと、先輩に言われたことがあります。公務員は都市を創造しないのです。しかし、保存の意志と同じように行政は都市開発主体ですし、昨今はその行政でさえ経済事情に圧倒され、都市の位置づけまでもが経済のメカニズムに従いがちな世の中で、一体全体どの開発主体が経済開発のカウンターとなるべき建築の倫理を実現しうるのでしょうか?
特に学生には資本ゲームのプレイヤーとしてそれを楽しむのはやめましょうと前に関わった雑誌でかきたかった。

わけわかりません。青き葛藤に解なしです。